翌朝はフモコさんと三人+野菊さんで千早赤阪村に行きましたよ~。
大楠公こと楠正成公の足跡をたどりましょう!
まずは千早赤阪歴史資料館。大楠公の生誕地があり、このすぐそばに産湯を浸かったといわれる井戸跡もございます。
野菊 「楠正成とは、千早城の城主で鎌倉時代から南北朝時代にかけて活躍した武将よ。 もともとは足利尊氏らと共に戦った建武の新政の立役者でありますが、後に後醍醐天皇に付き南朝の一翼として足利尊氏と敵対しますの。
千早城の戦いでは圧倒的戦力差ながらも奮闘し、幕府軍を退けました。
湊川の戦いで不利を承知で参戦し、自害いたしますが北朝が勝利を収めたため、長く正成公は『朝敵』と見做されました。その頃朝廷に敵対するもの、と言う意味で『悪党』という諱がありましたので 正成=悪党=DQNというイメージが強く持たれております。
楠木流軍学(江戸時代に南木流軍学として流行しました)が現在でいうゲリラ戦法のようなものだったので余計にそんな印象がうけとめられたのかもしれませんね。
現在は歴史の観点からの印象が大きく変わって認識されており、明治13年に正一位のくらいを贈られまして大楠公は南朝に尽くし死した忠義の人であり、軍術に長けた才の人であるとされております。」
野菊さん詳しいですね~!
野菊 「野菊、千早七城のうち烏帽子形城にいったし、大楠公の首塚のある観心寺にも何度か行ったからね!
ミホッチ☆、あなたお出かけの時に何にも考えずボ~~っと散歩してるでしょう!もっとその土地の事や歴史、建造物、その他由来にも気を配りなさい!」
そ、そんなこと考えながらお散歩してたんですかぁ~~~。。。知らなかった!
千早赤阪は棚田が有名。
水仙郷も美しいのですが、なぜかこの時期にぽつぽつ咲いてる。。。狂い咲き!?
まずは封建塔。水仙郷の上の方にありますよ。
ここは楠正成の没後600年記念に徳島県の誰かさんが意を固め、全国の有志の募金により建てられました。
享年43歳にちなんで43尺(13m)、楠木家の家紋「菊水紋」と旗印とされている「非理法権天」が刻まれております。
ぬっ!?
こんなところに落書きが!!! 天誅!天誅ですよ!!!
しかも足利尊氏って!!!!
ただの不良の「○○参上」ならいいってことはないですけど、歴史の知識あったうえでの落書きですかぁ~!? これはこれで二乗で許せませんねぇ~。犯人は鎌倉幕府の手の者ですよ!!
ほんと、史跡やこういうところへの落書きいたずら・・・ダメですよ。千早城は心霊スポットでも有名ですよ、、、必ず呪われます・・・。やめましょうね。
建水分神社は回らずに上赤坂城址へと直行・・・。
登山口です。道の駅・歴史資料館から寄り道せずに来れば徒歩30分くらいかな。
ここから城址、上赤坂城本丸跡まで20分。
四方を絶壁に囲まれ要塞堅固を誇ったといわれる連郭式山城ですんで、まぁ~覚悟していきましょう!
この狭くて険しい山道を攻め入るのは鎌倉幕府の兵たちもさぞや大変だったでしょう・・・。しかもゲリラ兵が潜んでて奇策で襲ってくるんでしょ~? いやーーん!
道はね~正直暗くて狭くて悪いですよ~! 荒れてるし滑るしなんかもう訳わかんなくなってるとこもいっぱい!
まぁでもね、季節感のない晴天の陽気な日の真昼間に行った甲斐があって、趣があるってもんです。これ寒くて曇天の夕暮れとかだと泣きます。ていうか登れないですよ、多分。真っ暗で危なくて。
狭いってば。。。
最後の方、道がどこかもわかんないですwww
ンでようやくついたか!?となった時に目に入ってきたもの・・・
ぅおいっ!!!???(゚∇゚ ;)エッ!?
地面に落ちた朽ち果てたかまぼこ板くらいの「本丸」プレート・・・。
ま、まじか・・・とクラクラしながら奥に進むと広場っぽい場所が・・・。
楠正成(陣頭指揮)ごっこ!
野菊 「はぁ? ばっかじゃないのぉ~~~???」
野菊さんの白んだ視線が本当に冷たくて厳しいです・・・11月末とは思えないような陽気なのですが、芯まで凍る思いです・・・。
じゃぁもう帰ろうか、としていたら野菊さんが奥へと誘います・・・付いていくと、、、あれ!? 城址の石碑!
あ~~るじゃ~~~~~ん!!!ヾ(=^▽^=)ノよかった~~~! あのかまぼこ板だったらどうしようかと思ったよ、、、
展望よく、遠く大阪市内が見えます。。。
その後二の丸跡などにも足を延ばしてみましたが、二の丸の方はこれといった史跡もなく・・・。(果たして場所があっていたのか???)
下りは滑るのがちょっと怖いけど、あっという間でした(;´Д`) 登るのそこそこしんどかったのに!
山道としてはそんなに距離がないので、歩きを楽しむなら歴史資料博物館からずっと大楠公の縁の地をたどりながら歩くのが楽しいと思うよ。
ただ、ぜひとも明るいうちに。笑 暗くなると危険だよ~。
大楠公こと楠正成公の足跡をたどりましょう!
まずは千早赤阪歴史資料館。大楠公の生誕地があり、このすぐそばに産湯を浸かったといわれる井戸跡もございます。
野菊 「楠正成とは、千早城の城主で鎌倉時代から南北朝時代にかけて活躍した武将よ。 もともとは足利尊氏らと共に戦った建武の新政の立役者でありますが、後に後醍醐天皇に付き南朝の一翼として足利尊氏と敵対しますの。
千早城の戦いでは圧倒的戦力差ながらも奮闘し、幕府軍を退けました。
湊川の戦いで不利を承知で参戦し、自害いたしますが北朝が勝利を収めたため、長く正成公は『朝敵』と見做されました。その頃朝廷に敵対するもの、と言う意味で『悪党』という諱がありましたので 正成=悪党=DQNというイメージが強く持たれております。
楠木流軍学(江戸時代に南木流軍学として流行しました)が現在でいうゲリラ戦法のようなものだったので余計にそんな印象がうけとめられたのかもしれませんね。
現在は歴史の観点からの印象が大きく変わって認識されており、明治13年に正一位のくらいを贈られまして大楠公は南朝に尽くし死した忠義の人であり、軍術に長けた才の人であるとされております。」
野菊さん詳しいですね~!
野菊 「野菊、千早七城のうち烏帽子形城にいったし、大楠公の首塚のある観心寺にも何度か行ったからね!
ミホッチ☆、あなたお出かけの時に何にも考えずボ~~っと散歩してるでしょう!もっとその土地の事や歴史、建造物、その他由来にも気を配りなさい!」
そ、そんなこと考えながらお散歩してたんですかぁ~~~。。。知らなかった!
千早赤阪は棚田が有名。
水仙郷も美しいのですが、なぜかこの時期にぽつぽつ咲いてる。。。狂い咲き!?
まずは封建塔。水仙郷の上の方にありますよ。
ここは楠正成の没後600年記念に徳島県の誰かさんが意を固め、全国の有志の募金により建てられました。
享年43歳にちなんで43尺(13m)、楠木家の家紋「菊水紋」と旗印とされている「非理法権天」が刻まれております。
ぬっ!?
こんなところに落書きが!!! 天誅!天誅ですよ!!!
しかも足利尊氏って!!!!
ただの不良の「○○参上」ならいいってことはないですけど、歴史の知識あったうえでの落書きですかぁ~!? これはこれで二乗で許せませんねぇ~。犯人は鎌倉幕府の手の者ですよ!!
ほんと、史跡やこういうところへの落書きいたずら・・・ダメですよ。千早城は心霊スポットでも有名ですよ、、、必ず呪われます・・・。やめましょうね。
建水分神社は回らずに上赤坂城址へと直行・・・。
登山口です。道の駅・歴史資料館から寄り道せずに来れば徒歩30分くらいかな。
ここから城址、上赤坂城本丸跡まで20分。
四方を絶壁に囲まれ要塞堅固を誇ったといわれる連郭式山城ですんで、まぁ~覚悟していきましょう!
この狭くて険しい山道を攻め入るのは鎌倉幕府の兵たちもさぞや大変だったでしょう・・・。しかもゲリラ兵が潜んでて奇策で襲ってくるんでしょ~? いやーーん!
道はね~正直暗くて狭くて悪いですよ~! 荒れてるし滑るしなんかもう訳わかんなくなってるとこもいっぱい!
まぁでもね、季節感のない晴天の陽気な日の真昼間に行った甲斐があって、趣があるってもんです。これ寒くて曇天の夕暮れとかだと泣きます。ていうか登れないですよ、多分。真っ暗で危なくて。
狭いってば。。。
最後の方、道がどこかもわかんないですwww
ンでようやくついたか!?となった時に目に入ってきたもの・・・
ぅおいっ!!!???(゚∇゚ ;)エッ!?
地面に落ちた朽ち果てたかまぼこ板くらいの「本丸」プレート・・・。
ま、まじか・・・とクラクラしながら奥に進むと広場っぽい場所が・・・。
楠正成(陣頭指揮)ごっこ!
野菊 「はぁ? ばっかじゃないのぉ~~~???」
野菊さんの白んだ視線が本当に冷たくて厳しいです・・・11月末とは思えないような陽気なのですが、芯まで凍る思いです・・・。
じゃぁもう帰ろうか、としていたら野菊さんが奥へと誘います・・・付いていくと、、、あれ!? 城址の石碑!
あ~~るじゃ~~~~~ん!!!ヾ(=^▽^=)ノよかった~~~! あのかまぼこ板だったらどうしようかと思ったよ、、、
展望よく、遠く大阪市内が見えます。。。
その後二の丸跡などにも足を延ばしてみましたが、二の丸の方はこれといった史跡もなく・・・。(果たして場所があっていたのか???)
下りは滑るのがちょっと怖いけど、あっという間でした(;´Д`) 登るのそこそこしんどかったのに!
山道としてはそんなに距離がないので、歩きを楽しむなら歴史資料博物館からずっと大楠公の縁の地をたどりながら歩くのが楽しいと思うよ。
ただ、ぜひとも明るいうちに。笑 暗くなると危険だよ~。